硫黄島の熊野三山

硫黄島の熊野三山とは

 熊野三山といえば和歌山県の熊野本宮大社、速玉(はやたま)大社(新宮)、那智大社が世界遺 産としても有名ですが、『平家物語』によると、平安末期にはここ硫黄島にも熊野三山があ ったとされています。 平安末期、京都周辺では熊野信仰が熱気を帯びており、白河上皇は9回、鳥羽上皇は21回、後白河院は33回(34回とも)、後鳥羽院は28回も熊野に出かけています。京都から片道約2週間、往復1か月近くもかかる旅を年2回(おもに春・秋)も行っていたらしく、かなりの熱心さであったことがうかがえます。安元3年(1177=治承元年)6月の鹿谷(ししがたに)陰謀事件(平家打倒の失敗)により、藤原成経(ふじわらのなりつね)、平康頼(たいらのやすより)、俊寛僧都(しゅんかんそうず)の3人がここ硫黄島に流されてきました。3人の中でも平康頼は熊野信心の人で、京都にいたころ実際に後白河上皇の近臣として熊野詣でに随行していました。そこで康頼は硫黄島で熊野に似ている地形を探して熊野三山を勧請し、帰洛(きらく)(都に帰ること)を祈ったと『平家物語』に書かれています。近年になって、『平家物語』の古態本である延慶本(えんぎょうぼん)(鎌倉後期)と現地の地形によって、本宮は俊寛堂(厳密にはそのそばの河原)、新宮は港近くの熊野神社、那智は東温泉近くの滝(雨の日に見られる)だとする説が提唱されています。また、延慶本の表現を根拠として、康頼ら三人が住んでいたのは島の北部の大谷(ウータン)という沢であったとも推定されています。

硫黄島熊野三山めぐりの作法

  硫黄島に流された藤原成経(ふじわらのなりつね)、平康頼(たいらのやすより)、俊寛僧都(しゅんかんそうず)のうち、平康頼が先達となって成経とともに硫黄島の熊野三山詣でをしていたと考えられます。そのご利益によって、二人は約一年後、ご赦免船に迎えられ、都に帰ることができたと『平家物語』には書かれています。
 その熊野三山詣でになぞらえるとすると、われわれ現代の参拝者も三人の居住地である大谷を出発点とするのがよいでしょう(熊野神社には軽く会釈して通過します)。海岸から大谷の沢(約500m)を上り、車道を俊寛堂〔本宮〕まで歩きます。(時間があれば河原の旧跡まで行きます)。次に、熊野神社〔新宮〕まで歩きます。(時間があれば途中の御前山安徳天皇陵にお詣りしたいところですが、急ぐ場合は軽く会釈して通過します)。
 熊野神社から海沿いの道を通って東温泉手前の「那智の滝展望台」から那智の滝(那智)を拝みます。実際の滝は、まとまった雨が降った後にしか、見ることができません。 
そのあと、岳乃神(たけんかん)にお詣りして港に戻ります。岳乃神は熊野三山には入りませんが、稲村岳の沢の麓という立地から、延慶本『平家物語』(鎌倉後期)に記されている岩殿という神社だと推定されていて、そこには夷三郎殿(えびすさぶろうどの)という神様が住んでいたとされています。
 平康頼らもお詣りしたとされている神社です。

       

 ご本家である和歌山の熊野三山では、いわゆる神社のおふだと同じように、熊野牛王符(くまのごほうふ)というものを本宮、新宮、那智のそれぞれで受けることができます。今でも、熊野三山の牛王符を集めるのを楽しみにして三山めぐりをしている人々が多いようです。硫黄島では、おみやげ販売所「さるく」にてお頒けしています。ご自身の「大願」を三枚の牛王符に込めたあと、ご自宅の神棚にお供えください。熊野の神様はもともと神仏習合(本宮の本地は阿弥陀如来さま)ですから、仏教のかたはお仏壇でも構いません。  
 一度に三山を巡ることができなかった場合は、後日、その続きをしても構いません。また、平康頼は33度の熊野三山巡りを目指していたことが延慶本『平家物語』に記されていますので、願いが叶うまで何度三山巡りをしても構いません。
なお、「大願」の内容は、それが叶うまで人に語ってはいけません。それが成就したら、こちらのホームページの掲示板にそのことを報告してください。また、願いが叶ったら、「願ほどき」と言って、その神社にお礼詣りするのが一般的です。それにならって、もう一度硫黄島に来てください。

        

ご本家である和歌山の熊野三山牛王符(ごおうふ)

 熊野本宮の牛王符    熊野新宮の牛王符    熊野那智の牛王符
          

大谷(ウータン) 三人の居住地

 安元3年(1177=治承元年)6月の鹿谷(ししがたに)陰謀事件(平家打倒の失敗)により、藤原成経(ふじわらのなりつね)、平康頼(たいらのやすより)、俊寛僧都(しゅんかんそうず)の3人がここ硫黄島に流されてきました。その3人が住んだ場所が、ここ大谷ではないかとの説が、近年出されています。 延慶本『平家物語』(鎌倉後期)の記述から、3人が住んだ場所について、次のような条件を割り出すことができます。

  1、海を見ながら都のほうを眺めていたとあるので、島の北部か東部だと考えられます。i5-6300U島の東部の穴の浜方面は地形上、人の往来が困難なので、島の北部の可能性のほうが高いでしょう。また、心理的には、九州本土の開聞岳を眺めながら都を想ったのではないかと考えられ、その点からも島の北部のほうが可能性としてはありえます。
2、島の南の独立峰(稲村岳と推定される)から北に五十余町離れたところに住んでいたとあります。硫黄島の南北は約3kmしかなく、五十余町は5km余りなので合いません。ジグザクやアップダウンの道を実測すると、実際に5km以上あることが報告されています。
3、そこは大きな岩のある場所で、元気をなくした俊寛が岩のはざまで休んでいたと記されています。これに該当する場所は、島の北部ではほかにありません。 
4、地震が起こって「石岸」から岩が転がり落ち、そのまま海に入ったとあるので、崖が海の近くに迫っている場所だと考えられます。これに該当する場所は、島の北部で人が住めそうなところでは、ほかにありません。これに加えて、現地の地形からも、次のことを補強することができます。
5、硫黄島は強風に見舞われることが多く、人が住める場所の条件として、風よけであることは大きな要素だったと考えられます。航空写真をみてもわかりますが、他のどの沢よりも大谷の沢は幅が広く、また深く、風よけに適しています。水も得やすかったと考えられます。
6、大谷の沢を少し上流に上ると、高さ2~3mの壁面(岩盤ではない)が両側に続く場所もあり、大雨の日には横穴を掘ってしのぐこともできます。以上の諸条件に合致する場所は、ここ大谷以外にはありません。この海の見える場所からYの字の沢のうちの右側の沢を上ってゆくと、500m(約30分)ほどで車道に出ます。この道は、古代から変わらぬ道だと考えてよいでしょう。現地の人々は、ここ大谷をウータンと呼びならわしています。

  海に迫る崖   開聞岳が望める        巨 岩
     

硫黄島熊野本宮(昭和以降の俊寛堂)

 現在ではここは俊寛堂と呼ばれ、島に残された俊寛が晩年を過ごした場所とされていますが、幕末の『三国名勝図会』(天保14年〈1843〉成立)では「御祈大明神社」と記されており、昭和8年(1933)の『硫黄島要覧』でもその名称で呼ばれています。俊寛堂の名称になったのは、それ以降でしょう。
「御祈」の名称から、ここは藤原成経、平康頼、俊寛僧都の三人が帰洛(都に帰ること)を祈った神社であったと推定されます。
 実際に、『三国名勝図会』の熊野神社の由緒に「往古、治承元年、丹波少将成経・平判官康頼・大僧都俊寛、当島へ流されし時、赦を得て再帰せん事を祈り、紀州熊野三所権現を勧請して建立せしといふ。」と書かれていて、これが御祈大明神社の由緒でもあったと考えられます。
 この地が熊野本宮に相当する神社であると推定される根拠には、ほかに次のようなものがあります。
  1、和歌山の新宮と本宮が熊野川の上流・下流の位置関係であることと、硫黄島の熊野神社と俊寛堂が長浜川の上流・下流の位置関係であることが相似形を成しています。
   2、和歌山の熊野本宮は熊野川の屈曲点の内側に立地していることと、硫黄島の俊寛堂が長浜川の屈曲点の内側に立地していることが相似形を成しています。 
  3、さらに、明治22年(1889)の大水害までは熊野本宮は熊野川の河川敷[大斎原(おおゆのはら)と呼ばれる]にあったとされますが、『三国名勝図会』によると、硫黄島の【御】祈大明神社も長浜川の河川敷のやや上流(すなわち最大屈曲点)にあったとされ、ますます地形が酷似しています(「往古、俊寛の石塔、此の川原の上にありしに、雨水洗崩して、其儘に打捨ありしにが、其遺霊にて神怪の事ありしが、土人恐れて今の地に当社を建立せりとぞ。」)。
 鹿児島県南さつま市の万之瀬川(まのせがわ)の下流域に屈曲点があり、平安末期にはそこに熊野社があったことがわかっており、川の屈曲点の内側(インコーナー)に熊野神社を勧請する風習が全国に広がっていた可能性が浮上しています。和歌山の場合、水に足を濡らしながら大斎原(おおゆのはら、旧熊野本宮社殿)に参詣していたことが中世の記録にも残されており、川の屈曲点の内側に立地していることの意味は、「水に囲まれた聖地」を意味するものであったと考えられています。
  足を水に濡らす行為は禊(みそぎ)に相当するものと考えられ、民俗学的には、水にいったん入ることで疑似的に死を体験し、向こうの聖地で生き返るという「死と再生」の儀礼を実践する場でもあったと推定する説もあります。 これは、大仙古墳(仁徳天皇陵)などの古墳文化にも通じる考え方だとされています。

    

硫黄島熊野新宮(古くから熊野神社と呼称)

 この神社は、一時期(江戸後期か)「硫黄大権現」と呼称されたこともありますが、幕末の『三国名勝図会』(天保14年〈1843〉成立)では「熊野神社」と記されています。
同書には、「往古、治承元年、丹波少将成経・平判官康頼・大僧都俊寛、当島へ流されし時、赦を得て再帰せん事を祈り、紀州熊野三所権現を勧請して建立せしといふ。」と書かれていて、藤原成経、平康頼、俊寛僧都の三人が帰洛(都に帰ること)を祈った熊野三山の一つであったと推定されます。
  なかでも、この神社の立地から、新宮(熊野速玉大社)に相当する神社ではないかと考えられます。その立地とは、和歌山の新宮が熊野川河口そばに立地していることと、硫黄島の熊野神社が長浜川河口そばに立地していることが、相似形を成している点です。
和歌山の新宮は現在は海岸から3kmほど内陸に入っていますが、かつては海岸線が現在よりも2kmほど内側であったとされています。和歌山の新宮は熊野川の左岸に、硫黄島の熊野神社は長浜川の右岸に位置するという違いはありますが、それは那智の滝の位置が和歌山と硫黄島で反対方向に位置していることと関係しているとみられます。熊野三山をトライアングルに見立てると、和歌山と熊野とでは三角形の頂点(那智の滝)が逆方向になります。そのことによって、新宮と熊野神社の位置関係も線対称になったものと推定されています。

  

硫黄島熊野那智(このたび那智の滝と命名)

 まとまった雨が降ったあとには、稲村岳東麓の展望台から、滝を望むことができます。この滝が平康頼らの拝んだ那智の滝であるという文献上の証拠はありません。ただし、次の根拠から、この滝が熊野の那智の滝に相当するものであると推定されています。 
   1、延慶本『平家物語』(鎌倉後期)の硫黄島関係の記述は、海流、島内の地形、地勢と符合する点が多く、一定の史実を含んで いると考えられます。 
   2、平康頼、藤原成経は歴史上の実在の人物で、硫黄島から都に戻り、13世紀初頭まで生存したと考えられていて、成立時代 の近い延慶本『平家物語』に荒唐無稽な話が記述されたとは考えにくいと思われます。 
   3、その延慶本において、平康頼は硫黄島の熊野三山巡りに異様な執念を見せており、和歌山の熊野三山巡りを33度遂げるという願をかけて18度まで果たしたところなので硫黄島で残りのぶんを遂げたいという文脈がしばしば登場します。
   4、熊野三山は、三山揃ってセットであり、現在の硫黄島から本宮、新宮に相当する有力な史跡が発見されているので、那智の滝に相当するものが存在しなかったとは考えにくいでしょう(二山で我慢したとは考えられず、康頼の熊野詣でが虚構であったとすると延慶本の像と矛盾する)。以上の1~4から硫黄島にも那智の滝が存在したと考えられ、それを前提として次のように、この滝こそが那智の滝であると推定する説が出されています。 
   5、延慶本の中で、平康頼は「熊野三山巡りをする」とは言わずに、「岩殿にお詣りする」という表現で熊野三山巡りをしています。岩殿は稲村岳のことと推定されており(硫黄島の南にある独立峰で、硫黄岳の鎮火の神様であると延慶本に記されています)、東温泉近くのこの滝が那智の滝だとすると、「岩殿にお詣りする」という表現によく符合する位置関係です。 
   6、和歌山の熊野三山も本宮・新宮・那智がトライアングルの形を成しており、硫黄島のこの滝が那智の滝であると考えると三山の配置も近似することになります。 
   7、和歌山の那智の滝は、Yの字型の谷から糸のように落ちる直瀑ですが、硫黄島のこの滝もYの字型の谷から糸のように落ちる直瀑で、形状がよく似ています。
   8、和歌山の那智の滝は、通常は那智大社から観望します。その際、左上から右下へと延びる尾根によって遮られ、那智の滝の下部を見ることはできません。硫黄島の那智の滝も、この位置から観望すると、同じように左上から右下へと延びる尾根によって滝の下部が遮られ、光景がよく似ています。なお、この場所から東温泉方向に下って磯に出ると、この滝を正面から眺めることができます。
 

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     那智の滝(硫黄島)       那智の滝(和歌山)
    
    

岳乃神(岳乃神境内)

 「岳乃神」(たけんかん)の名称から、山を祀った神社だと考えられます。
幕末の『三国名勝図会』(天保14年〈1843〉成立)ではここに蔵王権現 が祀られていたと記されていますが、蔵王権現は山岳信仰の神として知られています。この神社は稲村岳唯一の沢の麓に位置し、この付近が古くからの稲村岳登山口であったと考えられます。現在の登り口も、ここから西に100mほど進んだところにあります。 
  山岳信仰では山全体がご神体で、山頂と麓に社(やしろ)や祠(ほこら)が設けられることが多かったのです。これを山宮と里宮と呼びますが、高齢者など山頂まで登ることができない場合(一部の女人禁制の山では女性も)、里宮から山を拝みました。このため、里宮を遥拝所とも呼ぶことがあります。岳乃神は、その名称や由来、また立地から、稲村岳の遥拝所であった可能性があるのです。 
  延慶本『平家物語』(鎌倉後期)によると、硫黄島に流された藤原成経、平康頼、俊寛僧都の三人は島に熊野三山を勧請して三山巡りをしていたと記されています。その際、硫黄島の熊野三山を「蛮が岳」(えびすがたけ)周辺で探したとあり、その山は硫黄島の南部にある独立峰で、硫黄岳の鎮火を司る神(夷三郎殿)が住んでいたとされるので、その山が稲村岳である可能性が高いでしょう。島の人々の尊崇の篤かったことも、延慶本には記されています。このことから、平安後期以前には、すでに存在していたらしいです。 
  島の人々の記憶によると、昭和の戦後に、硫黄岳の中腹にあった小祠(硫黄岳の神を祀る)をここ岳之神に移したとのことなので、現在では稲村岳の神と硫黄岳の神が合祀されていることになります。

      

熊野のカラスと硫黄島

 熊野のカラスは、サッカー日本代表のシンボルマークにもなっていて有名です。正式には八咫烏(やたがらす)と呼ばれ、神武天皇が日向国(宮崎神宮)をたって紀伊国(和歌山)の熊野国を経由して大和国(橿原神宮)に入ったとき、熊野から大和までのその道案内をしたとされるカラスのことです。「八咫」(やた)とは大人が手を広げたほどの大きさの単位のことで、三本足のカラスであることを特徴とします。
 
 ここ硫黄島にも、そのような「先導役としてのカラス」の伝承があります。 旧暦九月十日、十一日に熊野神社前の宮之馬場(みやんばあ)で行われる「九月踊り」という祭りがありその2日目に、神の使いとされる「宮ガラス」と呼ばれる女性たちが登場します。髪は島田に結い、まげの上に黒い木で作ったカラスの頭のようなものを載せます。 
硫黄島で伝えられている「扇子踊り」の歌詞によると、宮ガラスたちが参詣者(踊り手)たちに「風の宮様」「雨の宮様」「浅間が岳福一万虚空蔵様」を案内しながら参詣をうながすという、「先導役」を果たしていることが注目されます。 
  現在の歌詞は、京都の者が伊勢神宮に参詣することになぞらえた内容になっていますが、
   ①熊野神社の神前で踊るものであること 
   ②一般の踊り手を導くのがカラスであること 
   ③参詣する対象が三か所で熊野三山に似ていること
  という共通点からみて、日本神話に出てくる「熊野の先導役としてのカラス」伝承の痕跡ではないかと考えられます。

九月踊りの際、神の使いとされる「宮ガラス」が登場します。
赤い矢印の部分が黒い木で作ったカラスを表しています▼
        

硫黄島熊野三山の牛王符(ごおうふ)

 この牛王符に書かれている文字も烏文字(からすもじ)と言って、たくさんのカラスが集まって文字を形成しています。
 なぜカラスかというと、神武天皇が奈良の都に入る時、紀伊半島の南の熊野から入ったのですが、その時、カラスが先導役を務めたということに由来するものです。 
硫黄島の九月踊りで女性が頭にカラスを載せているのも、硫黄島に本当に熊野信仰が根ざしていたなごりであろうと考えられます。
 下記のお札が硫黄島熊野三山の牛王符になります。 この牛王符はただの工作物ではありません。鹿児島の由緒ある照国神社様より正式に「心願成就」の祈祷を受けたものです。 ぜひ貴方もこの硫黄島を訪れ、三山巡りを行い、御札を祭って大願を成就させてください。

  硫黄島本宮の牛王符    硫黄島新宮の牛王符    硫黄島那智の牛王符
     
  

 判りやすいように牛王符の上から赤文字を入れてみました。
  烏文字は、神武天皇が紀伊半島南部から奈良盆地に入る際、カラスが道案内の先導役を務めたとする伝承に由来するものです。
    

その他

硫黄島熊野三山めぐりマップ

 この地を訪れたときに迷うことなく
 三山めぐりが出来るようマップを作
 りました。
 左の画面をクリックするとA4サイ
 ズのPDFファイルが表れますのでプ
 リントしてお使いください。

大願成就の杖を作りました。
 この杖には大願成就と硫黄島熊野三山の焼き印が押してあります。この杖を使いながら三山巡りを行うと心願が一層上がるかもしれません。
  一本1,000円でお売りしています。港前のお土産屋「さるく」で販売しています。
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